「努力や頑張りではなく」
一生懸命頑張ったのに手ごたえがないというのはつらいものです。やれどもやれども達成感がないのです。そうなると、一体どうしたらいいのかと、途方にくれてしまうような気がします。今からお話しする青年も、実はそのような人でした。
その青年は、イエス・キリスト様に「先生、永遠の命をえるためには、どんな良いことをすればいいのでしょう。」とそう問いかけました。それに対してイエス様は戒めを守りなさいそう言われる。そして、具体的に「殺すな、姦淫するな、偽証を立てるな。父と母を敬え、」いった旧約聖書に書いてある十戒と呼ばれる神様から与えられた十の戒めに書かれている、対人関係における戒めをあげ、そして最後に「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」と言うのです。
この言葉をきいて、青年は「そのような事は、みんな守っています。」とそう言います。「そのような事は、みんな守っています。」といわれると、私たちは「本当かな」と思います。そして、この青年はただの傲慢な人間のように感じさえしてまいます。私たちにはなかなか出来ないことだからです。
わたしは、この青年は「本当に一生懸命、旧約聖書にかかれている戒めを、忠実に守り、守る為に一生懸命頑張っている。そういった意味では、彼は、神の戒めに誠実な人だった」のではないかと思います。と言うのも彼は、彼は「そのようなことは、みな守っております。何がまだ、かけているのでしょうか。」と問うているからなのです。一生懸命やったけれども、まだ何か足りないものがあると感じているその姿勢には真摯でまじめな態度が感じ取られるからです。
けれども、そんな聖書の言葉に誠実な人が、どんなに一生懸命聖書の言葉を守っても、努力して頑張っても、自分の心に平安が得られない。心にやすらぎがやって来ない。達成感がないのです。そして自分は大丈夫。間違いなく神の国、天国にいけるという確信が訪れてこないのです。だからこそ、「まだ何が足りないのですか。」「何がかけているのでしょうか」と問っているのです。
それこそ、どんなに一生懸命頑張っても、神の国の平安、永遠の命を自分の手にしたという手ごたえが得られない。そして、どうしたらいいかわからないで戸惑っているのが、この青年だといえます。神の言葉である聖書の教えに従い、それを守ろうと忠実に頑張っているのに、魂に平安を得られない人が、ここにいるのです。
このことは、実に不思議な事だといえます。頑張れば、頑張っただけの報いが受けられて然るべきです。そう思うのは、今も昔も同じ世の常のように思われます。実際彼は頑張り屋だったようですので、その結果として多くの富を得ていたようです。当時のイスラエルでは、富と言うものは、神様の祝福であると考えられていたのです。神の律法を頑張って守り、忠実に歩むものが、神様からの祝福を得て豊かにされていく。それは、誰にでも納得できるわかり易い理屈のように思われます。
ところが、イエス・キリスト様は、「富んでいるものが天国にはいるのは、ラクダが針の穴を通る方がもっとやさしい。」とそういわれるのです。この言葉に。イエス・キリスト様の弟子達は非常に驚くのです。非常に驚いて「では、だれが救われることができるだろうか。」とつぶやくざるを得なかった。
神の言葉である聖書の言葉を一生懸命守ろうとがんばっているこの青年は、その努力に対して富をもって祝福を得ている。そのような人がが、天国に入れないとするならば、一体誰が天国には入れるのか。だれもが、あの人なら、神様の祝福を受け手も当然だと思えあれる人であってもダメだというのなら、一体救いはどこにあるのか。弟子たちの驚きは、単に驚愕するといった驚きと言うよりもは、なにか絶望感をただよわせるような響きがあります。
これ以上ないような頑張りを見せても、あなたの努力や頑張りを、イエス・キリスト様はまだまだ不完全だといわれるのです。21節の「もし完全になりたいなら」と言うイエス様の言葉は、「完全になりたいなら」という以上、この青年がまだ不完全だという事をお認めになっている言葉になります。
「殺すな、姦淫するな、偽証を立てるな。父と母を敬え、」いった十戒めにある、対人関係における戒め上げ、そして最後に「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」と言われて、すべてそれらは行なっている言う青年自身も、それだけでは不完全であることがわかっている。わかっているからこそ、イエス・キリスト様のところに尋ねにきたのです。そして、イエス・キリスト様もその不完全さをお認めになる。
この、頑張って神の言葉を守ろうと努力すればするほど、何かかけている、これじゃダメだと感じる気持ちは、真摯に神に向き合う人が感じる心の様相であるようです。
宗教改革をおこなったマルティン・ルターは、若いころに森を散歩しているときに落雷に会うという、まさに九死に一生を得る経験をしました。そのこと通して、彼は神の裁きというものを、深い恐怖とともに実感するのです。そこで、彼は神様に祈ります。「神様、もしあなたが私を滅びから救ってくださるのなら、私は修道院に入ります。」とそう祈るのです。ルターは神に真摯に向き合うような人でしたから、その祈りにしたがって修道院に入ります。
そしてその修道院では、一生懸命修養し、修行し過ごすのですが、頑張って、頑張って一生懸命頑張れば頑張るほど、ルターの罪の意識は深められて、心が苦しみます。そしてその罪の意識に恐れ、不安を感じてどうしようもなくなるのです。彼もまた、自分の頑張りではどうしようもない、何か欠けたものを感じたのです。
一体、人間の努力や頑張りではどうしようもない欠けとはなんなのでしょうか。誰もが、彼が天国に生けないとしたら誰が天国にいけるのだろうかと思わせるような人でも、不完全だといわれるのであれば、どうすれば完全になれるのでしょう。ましてや、私たちはどうしたらいいのか。
そんな、青年にイエス様は「あなたが完全になりたいなら、」とそういって、何が欠けているかを示しました。それが「帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすればあなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、私について来なさい。」ということです。このイエス様の言葉は、「帰って、あなたの持ち物を売り払って、貧しい人に与えなさい。そうすればあなたは天に宝を積むことになります。」と言う言葉と「私に従ってきなさい」と言う言葉の二つに分ることができます。そしてその分けられた二つの言葉の、どちらに重きをおくかによって、理解の仕方が変わってきます。
わたしたちは、「あなたの持ち物を売り払って、貧しい人に与えなさい」と言う言葉が、非常にインパクトがありますので、そちらの言葉ばかりに目が行ってしまいます。そして。「持ち物を売り払って、貧しい人に与えなさい。」という言葉に重きをおくならば、財産を全部施しに使えという社会的な慈善活動をもっとしなさいという意味に捉えることが出来ます。言うなれば隣人愛を限りを尽くして徹底しなければならないということです。
しかし、「私に従ってきなさい」と言う言葉に重きをおくならば、イエス・キリストの弟子となって、イエス・キリスト様の語られる言葉にじっと耳を傾けてきく」と言う意味になるでしょう。ひょっとしたら、この青年も、わたしたちと同様に「持ち物を売り払って、貧しい人に与えなさい。」という言葉の方に重きをおいて、イエス・キリスト様の言葉を聞いたのかもしれません。だから、「この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去って行ったのです。彼はたくさんの資産を持っていたからです。
もちろん、たくさんの資産があるがゆえに、それに心が縛り付けられて、イエス様の言葉を受け入れられなかったということもあるかもしれません。
人間は、これ以上ないほど一生懸命頑張っている時に、頑張れと言われるのが一番つらいことだといわれます。必死に頑張っているのに、更に鞭打たれるような感じがするそうです。一体これ以上どう頑張れというのかと言う感じがするようです。。自分のできる限りの事をしているのに、もっとそれ以上といわれると、悲しみながら帰って行くしかないのです。自分ではできる限りの事をしているのに、お前はまだできるだけの資産があるじゃないか、さあそれをやれと言われれば、悲しい顔をして去っていくしかないのです。
それでは、イエス・キリスト様とは、もうこれ以上頑張れないという人に鞭打たれるお方なのでしょうか。いいえ、そうではありません。この青年は、「私に従ってきなさい」と言う言葉を聞き落としているのです。自分の持っているものを全部売り払って、貧しい人に施しをしてしまったならば、もはや自分の力でできる施しは何もありません。神様の前に、これこれの良いこと事をしましたということのできる材料は、もう何もなくなるのです。
残されたものは、ただイエス・キリスト様に従っていく、イエス・キリスト様の言葉に聴き従っていくということしかないのです。イエス・キリスト様は、あなたは十分に頑張った。もうこれ以上頑張る必要などない。これからは、ただ神さまと私によりすがって生きて生きなさいと言われているのです・
ですからイエス・キリスト様の「持ち物を売り払って、貧しい人に施しをしなさい。」という言葉や「富んでいるものが天国にはいるのは、ラクダが針の穴を通る方がもっとやさしい。」と言う言葉は、富を持っていてはいけないというような、富の否定でもなければ、頑張りに更に鞭打って頑張れと言うのでもないのです。
むしろ、どんなに人が努力して頑張っても手に入れることが不可能な永遠の命や神の恵みといったものは、ただ神を信じ、イエス・キリスト様の十字架の死による罪の赦しといったことを信じる事だけで、手にすることが可能なのだというのです。人の頑張りや努力、残していった功績に関わらず、神の恵みや神の王国で生きる永遠の命が与えられるということは、なんとありがたいことでしょう。ですから、私たちもまた、人間の努力や功績によってではなく、ただ神様を信じる信仰によって生きていく者でありたいと思います。
そのような生き方を見つけ出したならば、どんなに達成感が得られないようなときでも、あの青年のように、悲しみながらイエス様の前を去っていく事がないからです。むしろ、喜びに嬉々としながら、イエス様の後に従っていける者となっていけるのです。
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